ヤマハ8耐の原点 | YOUSHOPちしきのホームページ
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ヤマハ8耐の原点
2011年07月29日

こんにちは、STAFF大塚です。

週末は「鈴鹿8時間耐久レース」です。
1985FZR750.jpg
そんな週末にヤマハの8耐におけるお話を。
1985年 ヤマハはワークスとして初めて参戦を始めました。
そのマシンは「FZR750」
ベースマシンは「FZ750」という市販車。
しかしベースマシンとは全く似ても似つかぬ物になっていました。
ベースマシンは鉄フレームに対してFZRはアルミフレーム。
今では考えられないようなモディファイでした。
スポンサーは資生堂、男性化粧品ブランド「TECH21」
全くオートバイに関係がなさそうなスポンサーだったんですが当時はアリだったんです。
そんな「TECH21」のイメージキャラクターであったのが「平 忠彦」
その平忠彦とケニーロバーツがタッグを組み本気で挑んだ1985年の8時間耐久。
スタートはなかなかエンジンがかからずほぼ最後尾からスタートしたもののレース中盤には全車両周回遅れにするという神がかった早さを見せる。
このまま誰もがヤマハの勝利を疑わなかった。
しかしゴール30分前にFZRはメインストレートでエンジンが止まった。
その悲劇をバネにヤマハは更なる挑戦を始める。


1986年 平忠彦 クリスチャンサロン組

この年から「YZF750」と名を変え参戦。
しかし、またもやマシントラブルでリタイヤ。
YZF75001.jpg
翌年、1987年 平忠彦は怪我で欠場
ケビンマギー マーチンウィマー組
派手な走りはなかったものの2位のポジションを守っていたところ、トップを走っていたヨシムラがラスト5分で転倒。
皮肉にも平が欠場した年にヤマハ悲願の初勝利となった。
その後もヤマハと平の挑戦は続き、1988年は終了10分前にリタイヤ。
しかしラッキーストライクロバーツ「ヤマハ」が優勝。
1989年は5時間が経過後にマシントラブルでリタイヤ。
そして1990年、エディーローソンをペアライダーに迎えた。
スタートで出遅れたもののハイペースで走り続け、周りのライダーのアクシデントもあってトップにたった後はハイペースで走り続け周回数大会新記録を樹立。
平忠彦にとって念願の8耐制覇となったのです。
YZF75002.jpg
この年を最後にTECH21 YAMAHAは終わり新しい挑戦を続けていったのです。
ヤマハと8耐の歴史の中で「TEAM TECH21」は一番印象に残っている思い出。
鈴鹿の暑い1日は今なお変わらずにドラマを生み出しています。
今年はどんなドラマが待っているのかとても楽しみです。

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